PR

もっと知ってほしい「杉原千畝」 命のビザの外交官

PR
スポンサーリンク

杉浦千畝氏とは

杉原千畝(すぎはら ちうね)は、岐阜県八百津町出身で、日本の外交官です。第二次世界大戦中に「命のビザ」を発給したことで知られています。

「命のビザ」とは、第二次世界大戦中、日本の外交官・杉原千畝がリトアニアのカウナス領事館で、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ難民に発給した日本通過ビザのことです。もっとこの事は「日本人」に広がって欲しいものです。

それ故に、高額の飛行機で悠々と遥々縁もない「極東」へやって来る「偽装難民は絶対に許せない」気持ちも強く感じるのです。

杉原千畝の主な功績

  • 「命のビザ」の発給: リトアニアのカウナス領事代理時代(1939年〜1940年)、ナチスの迫害から逃れてきた数千人のユダヤ難民に対し、日本通過のためのビザ(査証)を発給し続けました。
  • 本国の訓令違反: 当時の日本政府の許可を得ることなく、あるいは本国からの訓令に反してビザを発給し続けたことで、多くの命を救いました。
  • 救われた命: 彼が発給したビザによって、6,000人とも言われるユダヤ難民がシベリア鉄道を経由して日本に渡り、第三国へと逃れることができました。

緊迫の状況(1940年 夏)

当時、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、多くのユダヤ人が隣国のリトアニアへ逃げ込みました。しかし、そこにもナチスの手が迫っており、彼らが生き延びる道は「国外脱出」しかありませんでした。

  • 行き場を失った人々: 欧米諸国がビザの発給を制限する中、難民たちは最後の望みをかけて日本領事館の門前に集まりました。
  • 杉原の決断: 日本政府(外務省)からは「行き先の入国許可を持たない者にはビザを出すな」という厳しい訓令が届いていました。しかし、杉原は人道的な観点から訓令に背き、独断でビザを書くことを決意しました。

「命のビザ」の凄絶な記録

杉原は1940年7月29日から、領事館を閉鎖して離任する9月5日まで、約1ヶ月間にわたって昼夜を問わずビザを書き続けました。

  • 肉体の限界: 手の痛みでペンが握れなくなるまで書き続け、最後は領事館を去る列車の中でも、窓からビザや署名した用紙を渡し続けたと言われています。
  • 発給数: 記録に残っているだけで2,139枚。家族を含めると、約6,000人もの命が救われたと推定されています。

難民たちが辿った「スギハラ・ルート」

ビザを手にした難民たちは、過酷な旅路を経て日本へと向かいました。

  1. シベリア鉄道: リトアニアからソ連(当時)を横断し、ウラジオストクへ。
  2. 敦賀(福井県): ウラジオストクから船で「人道の港」と呼ばれる敦賀港に上陸。
  3. 第三国へ: 神戸や横浜に一時滞在した後、アメリカやカナダ、イスラエルなどへと旅立っていきました。

「私に頼ってきた人々を見捨てることはできなかった。それが人間としての道だと思った。」 —— 後年の杉原千畝の言葉

この行動により、杉原は戦後しばらく外務省を退くことになりますが、救われた人々(スギハラ・サバイバー)とその子孫たちは現在、世界中で数十万人にのぼると言われています。

救われなかった人々

杉原千畝が「救った命」の象徴なら、『アンネの日記』は「救われなかった、しかし永遠に語り継がれる命」の記録と言えるかもしれません。

どちらも第二次世界大戦中のナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を背景としていますが、『アンネの日記』は一人の少女の視点からその悲劇を伝えています。

『アンネの日記』とは?

ドイツ生まれのユダヤ系少女、アンネ・フランク(1929年-1945年)が、潜伏生活中に綴った日記です。

  • 潜伏期間: 1942年7月から1944年8月まで(約2年間)。
  • 場所: オランダ・アムステルダムにある、父親の事務所の裏にある**「隠れ家」**。
  • 内容: 家族や他の同居人との共同生活、思春期特有の悩み、ナチスへの恐怖、そして将来への希望や夢が赤裸々に綴られています。

日記の歩みとその後

  1. 隠れ家での生活: 8人のユダヤ人が息を潜めて暮らしていましたが、1944年8月に密告によりゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に発見され、強制収容所へ送られました。
  2. アンネの最期: 終戦直前の1945年2月か3月頃、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で病死(発疹チフス)したとされています。わずか15歳でした。
  3. 出版: 隠れ家のメンバーで唯一生き残った父オットー・フランクが、アンネの願い(作家になりたいという夢)を叶えるため、1947年に日記を出版しました。

なぜ世界中で読み継がれているのか?

  • 「普遍的な少女の成長」: 単なる戦争記録ではなく、恋、親への反抗、孤独といった、現代の若者にも共通する瑞々しい感性が描かれているからです。
  • ホロコーストの証言: 統計上の「600万人」という犠牲者の数字ではなく、「アンネ」という一人の人間が何を考え、どう生きたかを伝えることで、歴史に血の通った実体を与えました。

杉原千畝に出会っていたら

もし、アンネやその家族が杉原千畝のような人物からビザを受け取り、日本を経由して逃れることができていたら……そんな「歴史のもしも」を考えずにはいられません。

杉原が救った人々の中には、アンネと同年代の子供たちもたくさんいました。

その後の評価

  • 「諸国民の正義の人」: 彼の行動は戦後長く評価されませんでしたが、1985年にイスラエル政府から、ホロコーストにおいてユダヤ人を救った非ユダヤ人に贈られる最高の栄誉である「諸国民の正義の人」の称号が授与されました。

コメント

Social Share Buttons and Icons powered by Ultimatelysocial