天安門事件の概要と参加者のその後
天安門事件(六四天安門事件)は、1989年(昭和64年/平成元年)の春から初夏にかけて、中国の北京にある天安門広場を中心に起きた民主化要求運動と、それを中国共産党政府が武力で弾圧した事件です。
天安門広場に建てられた「民主の女神」像. ソース: Wikipedia
事件の概要
発端は、1989年4月15日、改革派として学生や市民から支持されていた胡耀邦(こ・ようほう)元総書記の死でした。彼の死を悼むために天安門広場に集まった学生たちの集会は、やがて言論の自由や民主化、党幹部の汚職追放を求める大規模な抗議運動へと発展しました。
運動は北京だけでなく中国全土へ波及し、一時は100万人規模のデモとなりました。しかし、共産党指導部(特に鄧小平ら長老)はこれを「動乱」と断定し、最終的に軍隊を投入して力でねじ伏せました。
追悼から抗議へ
1989年4月
胡耀邦の死をきっかけに学生が天安門広場に集結。汚職打倒や民主化を求めるデモが始まる。
ハンガーストライキと運動の拡大
1989年5月中旬
ゴルバチョフ・ソ連書記長(当時)の訪中を機に、海外メディアが集まる中で学生がハンガーストライキを開始。一般市民や労働者も合流し、運動は最大規模に。
戒厳令の布告
1989年5月20日
政府が北京の一部に戒厳令を布告。軍が北京郊外に展開するが、市民がバリケードを築いて進軍を阻止する。
武力弾圧(六四天安門事件)
1989年6月3日深夜〜4日
人民解放軍の戦車と武装兵が天安門広場に向けて進軍。実弾を発砲し、抵抗する市民や学生を無差別に殺傷しながら広場を制圧した。
死傷者の正確な数は現在も不明です。中国政府は「数百人」と発表していますが、学生側の見解や各国の機密解除された外交文書などからは、数千人から1万人以上が犠牲になったとも推測されています。
参加者のその後
事件後、中国政府は徹底的な弾圧と参加者の摘発を行いました。参加者の立場によって、その後の運命は大きく分かれました。
学生リーダーたち
事件直後、主要な学生リーダー21人の全国指名手配が行われました。
亡命 ウーアルカイシ氏や柴玲(さい・れい)氏などは、香港の支援者らが組織した地下逃亡ルート(黄雀作戦)を通じて海外(アメリカやフランスなど)へ亡命しました。彼らの多くは現在も帰国できず、海外から中国の民主化を訴え続けています。
逮捕・投獄 王丹(おう・たん)氏など、逃亡に失敗したり国内に留まったりしたリーダーは逮捕され、長期間の懲役刑を受けました(王丹氏はその後、病気治療を理由にアメリカへ事実上の国外追放)。
一般市民・労働者
カメラの前に立つことが多かった学生リーダーに対し、運動を根底で支え、軍の進軍を最前線で阻止しようとした一般市民や労働者にはさらに過酷な運命が待っていました。 多くの名もなき市民が「暴徒」として逮捕され、見せしめとして死刑(即決裁判による処刑)や無期懲役などの極めて重い刑を科されました。
「タンク・マン(無名の反逆者)」
6月5日、長安街で戦車の列の前に一人で立ち塞がった男性の映像は世界中に配信されましたが、彼の身元やその後の生死は現在に至るまで一切不明です。

同情した政治指導者
趙紫陽(ちょう・しよう)総書記
学生たちの要求に理解を示し、武力弾圧に最後まで反対しましたが、鄧小平らによって失脚させられました。その後、2005年に亡くなるまで15年以上にわたり軟禁状態に置かれました。
遺族たち(天安門の母)
事件で子供を奪われた親たちは、丁子霖(てい・しりん)氏らを中心に「天安門の母」というネットワークを結成しました。彼女たちは長年にわたり中国当局からの監視や嫌がらせ、軟禁を受けながらも、犠牲者の名簿作成や、政府に対する真相究明・謝罪を命がけで求め続けています。
現在でも中国国内では「天安門事件」に関するあらゆる情報が厳格に検閲されており、ネット検索はもちろん、公の場で語ることすらタブーとされています。
「黄雀作戦」などの逃亡支援
「黄雀作戦(おうじゃくさくせん / Operation Yellowbird)」は、天安門事件直後の1989年6月中旬から、香港が中国に返還される1997年までの間に秘密裏に行われた、中国の民主化活動家や学生リーダーたちを海外へ逃亡させるための大規模な地下救出オペレーションです。
この作戦により、ウーアルカイシ氏や柴玲(さい・れい)氏などの主要な指名手配犯を含む、約300〜400人の活動家や知識人が逮捕を逃れ、西側諸国へ亡命しました。
奇跡的な「共闘」ネットワーク
この作戦の最大の特徴は、普段なら決して交わることのない人々が、人道的な目的のために一時的な協力関係を結んだ点にあります。
香港の民主派市民・実業家
資金提供や作戦の全体統括を行いました。香港の有名芸能人(歌手のアニタ・ムイなど)も多額の資金援助を行っていたことが後年明らかになっています。
「黒社会(マフィア)」と密輸業者
最も危険な実働部隊を担いました。広東省から香港への密輸ルートや、沿岸警備隊の裏をかくノウハウを持つ彼らが、高速ボート(大飛)を駆使して学生たちを海路で密出国させました。
西側諸国の外交官
香港(当時はイギリス領)に駐在するフランスやアメリカ、イギリスの外交官らが協力し、到着した活動家に緊急のビザや偽造パスポートを迅速に発給しました。特にフランス政府は亡命者の受け入れに極めて積極的でした。
中国の汚職役人・同情的な公安関係者
中国側の国境警備隊や警察の中にも、武力弾圧に反発を覚えている者や、賄賂を受け取って意図的に検問を見逃す者が多数存在しました。
逃亡のルートと手口
指名手配された学生たちは、北京から数千キロ離れた中国南部の広東省(深センや東莞など)まで、偽の身分証や変装を使って潜伏しながら移動しました。
海路での脱出
広東省の隠れ家から、夜陰に乗じて密輸業者の高速ボートに乗り込み、海上のパトロール網をかいくぐって香港の辺境地域(西貢など)に上陸します。
香港での潜伏
上陸後は、香港の大学の寮やフランスの外交施設、あるいは郊外の隠れ家(セーフハウス)に匿われました。
第三国への出国
西側諸国の領事館からビザが発給されると、一般の渡航者に紛れて香港国際空港からフランスやアメリカなどへ飛び立ちました。
「黄雀」という名前の由来
この作戦名は、中国の故事成語である「蟷螂の斧、黄雀の後ろに在るを知らず(カマキリが目の前のセミを捕らえようと狙っているが、その後ろから黄雀(コウライウグイス)が自分を狙っていることに気づいていない)」に由来します。
中国共産党(カマキリ)が学生(セミ)を血眼になって捕まえようとしている背後で、香港の支援者たち(黄雀)が密かに学生たちを掠め取って安全な場所へ連れ去る、という状況を暗喩したものです。
作戦の終焉: この救出ルートは長らく機能していましたが、1997年の香港返還が近づくにつれ、中国当局の公安警察が香港内での活動を活発化させたため、安全の確保が困難となり作戦は終了しました。
主な学生リーダーたちのその後
黄雀作戦(こうじゃくさくせん)によって中国国外への脱出に成功した学生リーダーたちは、アメリカやフランスなどの西側諸国へ亡命した後、それぞれの道を歩むことになりました。
彼らの多くは現在も中国への帰国が許されておらず、海外を拠点に活動を続けています。代表的なリーダーたちの「その後」と現在の状況です。
ウーアルカイシ(吾爾開希)氏:台湾を拠点に政治・人権活動
天安門事件当時は北京師範大学の学生で、ハンガーストライキを主導し、趙紫陽総書記や李鵬首相との対話の席にパジャマ姿で現れたことで強い印象を残した人物です。
経歴: フランス、アメリカへ亡命後、ハーバード大学などで学びました。のちに台湾へ移住して現地の女性と結婚し、台湾籍(中華民国籍)を取得しています。
活動: 台湾では政治評論家やラジオパーソナリティとして活動。また、国際的な人権団体「国境なき記者団」のチーフのほか、台湾の立法院(国会)で人権外交に関わる顧問を務めるなど、台湾の民主主義社会に深くコミットしながら、中国の覇権主義や人権弾圧に対する批判を続けています。
王丹(おう・たん)氏:歴史学者・シンクタンク設立
北京大学の学生で、政府指名手配犯リストの第1位に挙げられていた、運動の中心人物です。彼は黄雀作戦で逃亡せず国内に潜伏したため逮捕され、約4年間服役しました。一度釈放されたものの再逮捕され、1998年に病気治療を理由にアメリカへ事実上の国外追放(亡命)となりました。
経歴: ハーバード大学大学院に進学し、歴史学の博士号(Ph.D.)を取得。その後、台湾の複数の大学で中国近代史などを教えました。
活動: 現在は再びアメリカを拠点にしています。中国の民主化を研究・推進するシンクタンク「対話中国」を立ち上げ、若い世代への啓発活動や、習近平政権の政治体制に対する鋭い言論活動を精力的に続けています。
柴玲(さい・れい)氏:実業家への転身と信仰、人権活動
北京師範大学の大学院生で、天安門広場での防衛軍総指揮官(最高リーダー)を務めた女性です。黄雀作戦によって最も劇的なルートでフランスへ逃れた一人です。
経歴: アメリカへ渡った後、プリンストン大学で修士号、ハーバード・ビジネス・スクールでMBA(経営学修士)を取得。ボストンでIT関連のコンサルティング会社を起業し、実業家として成功を収めました。
活動: その後キリスト教に改宗。2010年には、中国の一人っ子政策による強制中絶や女児の間引き問題、人身売買に反対するNGO「オール・ガールズ・アロウド(All Girls Allowed)」を設立しました。政治的な民主化運動からは一歩引き、人道・宗教的なアプローチから中国の人権問題にアプローチしています。
亡命リーダーたちが直面した「現実」
30年以上の歳月が流れる中で、彼らを取り巻く環境や運動への評価も変化しています。
帰国の拒絶と肉親との別れ
中国政府は彼らの帰国を一切認めていません。ウーアルカイシ氏などは、中国にいる高齢の親に一目会いたいと、海外の中国大使館へ出向いて「自首」を試みたことが何度もありますが、中国政府は彼らの存在を無視し、自首すら拒絶し続けました。結果として、多くのリーダーが親の最期に立ち会えないという過酷な現実を経験しています。
運動内部の足並みの乱れ
長年の亡命生活の中で、当時の学生たちの間でも「あの時どう行動すべきだったか」を巡る方針の対立や、お互いへの批判が生じるなど、必ずしも一枚岩ではありません。
変容する国際社会での闘い
中国が経済的・軍事的な超大国へと急成長したことで、西側諸国の対中姿勢が時代ごとに揺れ動き、彼らの「民主化の訴え」が国際政治の現実の中で埋没しかける時期もありました。しかし近年の香港問題や台湾を巡る緊迫化を受け、彼らの経験や言葉は再び国際社会から注目を集めています。

証言天安門事件を目撃した日本人たち:「一九八九年六月四日」に何が起きたのか
六四回顧録編集委員会 (編集)


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